唐鎌大輔 みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト
[東京 25日] - 9月を振り返ってみると、欧州債券市場で不穏な報道が目立った。例えば月半ばにかけてはフランスの政局流動化と、それに伴う財政悪化懸念から格付けが引き下げられ、同国の10年債利回りがイタリアを上回るという動きが注目された。これは1999年以来の出来事である。
しかし、こうしたフランスの動き以前に英国の債券市場も断続的な注目を集めており、9月2日、英国債の10年物利回りが一時4.85%を突破したことが話題になった。これは2022年9月の「トラスショック」時を上回る水準だ。24日現在も4.7%程度で推移している。
ちなみにユーロ圏の10年債利回りに目をやると、政局不安に揺れるフランスおよびイタリアが3.5%程度、スペインが3.3%程度、ギリシャが3.4%程度である。トランプ米大統領が「解放の日」と称した4月2日以降、財政懸念がテーマ視される米国でも4.1%だ。英国の債券市場が先進国の中でも特に強いストレスにさらされているのは間違いないだろう。
その背景は様々な視点から議論可能だが、一言で言えば同国に対するスタグフレーション懸念が非常に大きい。英国のインフレ率(消費者物価指数(CPI)総合)は24年いっぱいをかけてプラス2%近傍まで鈍化したものの、25年に入ってから明らかに底打ちし、加速している。最新8月分はプラス3.8%と主要7カ国(G7)の中でも突出して強い伸びを示している。しかし、物価の騰勢とは裏腹に成長率は鈍化しており、25年4-6月期の実質国内総生産(GDP)成長率は前期比プラス0.3%と1-3月期(同プラス0.7%)から明確に鈍化している。
<「スタグフレーションに利下げ」という苦しい状況>
こうした状況下、イングランド銀行(英中央銀行、BOE)の「次の一手」は利下げとの観測が強まっており、文字通り「不況下の物価高」であるスタグフレーションへの対応モードに入っている。BOEの金融政策委員会(MPC)外部委員であるテイラー理事は今月3日、英議会の財務特別委員会に対する年次報告書において「(英経済は)現在ソフトランディングに近づいている。しかし、脆弱(ぜいじゃく)な局面にあるため、この軌道を維持するために今後数カ月間、金融政策を慎重に調整する必要がある」と述べている。目先のインフレ率の騰勢を脇に置いたとしても、実体経済を下支えするために利下げが正当化されるという姿勢である。
ちなみに8月のMPCは史上初めて2回の投票が実施され、テイラー氏は1回目でマイナス50bp、2回目でマイナス25bpを支持していた。なお、直近の9月18日のMPCは2会合ぶりに現状維持が決断されたものの、ここでも2名が25bpの利下げを主張し、反対票を投じている。「スタグフレーションに対して利下げで対応する」ことはインフレ高進を顧みない危うい政策運営だが、BOEの「次の一手」としてそれを選ばねばならないほど、英国経済の脆弱性が懸念される状況である。
こうした状況を踏まえ、1976年の再来、すなわち国際通貨基金(IMF)への国際金融支援(ベイルアウト)要請の可能性を気にする向きも増え始めている。欧州債務危機が終息してから10年以上が経過した今、ベイルアウトというフレーズを英国絡みで耳にするとは驚きである。もっとも、当時はプラス20%を超えるインフレ率とマイナス成長、これに伴うポンドの急落、新規国債発行の難航などに見舞われており、現在の状況とはかなり乖離(かいり)があるだろう。スタグフレーションという事実は共通しても、コストは高くとも市場からの資金調達が継続している以上、IMF支援はやや極端な見立てではないかと思われる。
<悲惨指数で見る日本の立ち位置>
もっとも、金融市場の値動きにとって「本当にそれが正しいのか」は重要ではない。多くの市場参加者がそのナラティブ(物語)を信用すれば資産価格は動く。今年に入ってから英国以前に米国でも財政リスクを意識した金利上昇が頻発しており、米連邦準備理事会(FRB)への人事介入に絡めてドルや米国債への信認は引き続き重要なテーマであり続けそうだ。
このように英米の債券・為替市場が異例の緊張感を強いられる中、日本が無関係を貫けるだろうか。程度の差こそあれ、スタグフレーションの様相を呈しているのは多くの先進国に共通しており、英国の混乱が日本に飛び火する可能性は一考に値する。
例えば失業率とインフレを組み合わせた「悲惨指数」で見た場合、カナダ、英国、ドイツの順に高く、日本は最低である。しかし、これは日本型雇用を前提とした極めて低い失業率の結果でもある。インフレ率だけで見た場合、英国の次に高いのが日本であり、その次に米国と続く。「日本型雇用を前提とした極めて低い失業率」については人手不足を背景としてその持続可能性に疑義が生じており、どこまで肯定的な評価を与えるべきなのかは議論の余地もあるだろう。高止まりする物価が実質ベースでの成長率を抑制するというスタグフレーションの苦しみを日本も目下、味わっている最中であり、英国の惨状から日本のそれを連想する市場参加者も少なくないはずだ。
<警戒すべき「もらい事故」>
元より「終わらない円安」に日本が悩んでいることも考慮すべきである。というのも、「円高時代のパニック」と「円安時代のパニック」は債券市場への影響が決定的に異なるからだ。
「円高時代のパニック」は金利低下(債券高)を伴うが、これにはゼロ金利制約があった。だから慢性的な円高に苦しめられてきた日本経済はそれと整合的に超低金利環境を常に享受してきた。しかし、「円安時代のパニック」には金利上昇(債券安)が青天井のリスクとして付いてくる。当然、投機的な収益機会をもたらしやすいのは「円安時代のパニック」の方であり、債券市場も巻き込まれる公算が大きい。英国の危機をフックとし、日本のそれを仕掛けようという思惑はあっても不思議ではない。
こうした状況の下、筆者は最近の英国市場で見られている混乱を「対岸の火事」と切って捨てるのは危ういと感じている。もちろん、経常黒字や対外純資産といった対外経済部門の頑健性に鑑みれば、日本が英国から「もらい事故」のように財政リスクを理由とした金利上昇や通貨安を強いられる筋合いにはない。しかし、「財政リスクを理由とした円売りと日本国債売り」は最近、頻繁に取引材料として扱われるケースが増えているようにも思える。実際に昨年の衆院選や今年の参院選はその前後で円安と円金利上昇が併発した。理由には与党敗北による政局流動化と、それに伴う拡張財政路線への懸念が頻繁に指摘されていた。現在進行中の自民党総裁選も、円や日本国債の利回りが動く材料となっている。
その指摘の真偽や妥当性はさておき、過去、日本の国政選挙が取引材料となることは極めてまれだったことを思えば、やはり不穏な雰囲気を感じるべきであろう。繰り返しになるが、投機的な仕掛けを講じる向きからすれば、「理論的に正しいかどうか」はあまり重要ではない。過去の本コラムで繰り返し論じているように、伝統的に防火壁と考えられていた経常黒字は、キャッシュフロー(CF)ベースで見れば意外と小さく、対外純資産の半分以上も恐らくは戻ってこない直接投資で構成されてしまっている。
諸条件を踏まえ「攻めてみる価値はある」との思惑が浮上してもおかしくない。海外主要国における財政リスクがテーマ化される際、そこから「もらい事故」のように円安と円金利上昇が加速する可能性を1つのリスクシナリオと考えておきたい。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*唐鎌大輔氏は、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト。2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本貿易振興機構(ジェトロ)入構。06年から日本経済研究センター、07年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向。08年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。著書に「弱い円の正体 仮面の黒字国・日本」(日経BP社、24年7月)、「『強い円』はどこへ行ったのか」(日経BP社、22年9月)など。新聞・TVなどメディア出演多数。note「唐鎌Labo」にて今、最も重要と考えるテーマを情報発信中。
*このドキュメントにおけるニュース、取引価格、データ及びその他の情報などのコンテンツはあくまでも利用者の個人使用のみのためにコラムニストによって提供されているものであって、商用目的のために提供されているものではありません。このドキュメントの当コンテンツは、投資活動を勧誘又は誘引するものではなく、また当コンテンツを取引又は売買を行う際の意思決定の目的で使用することは適切ではありません。当コンテンツは投資助言となる投資、税金、法律等のいかなる助言も提供せず、また、特定の金融の個別銘柄、金融投資あるいは金融商品に関するいかなる勧告もしません。このドキュメントの使用は、資格のある投資専門家の投資助言に取って代わるものではありません。ロイターはコンテンツの信頼性を確保するよう合理的な努力をしていますが、コラムニストによって提供されたいかなる見解又は意見は当該コラムニスト自身の見解や分析であって、ロイターの見解、分析ではありません。