池田雄之輔 野村証券 経済調査部長 兼 市場戦略リサーチ部長
[東京 29日] - 22日の日米関税合意を受け、日本株は急騰した。合意内容はポジティブサプライズの要素が多いのは確かであり、中長期の見通しは明るくなっている。しかし、市場は良いニュースを一気に消化したように見受けられる。「トランプ米大統領が結局は高関税の導入を回避する」、すなわち「TRUMP ALWAYS CHICKENS OUT(トランプ大統領は必ずヒヨって逃げる)」ことを前提とした「TACOトレード」の材料は出尽くしの感があり、マクロ、需給を踏まえても、日本株はいったん上値が重くなりそうだ。
<誰も予想できなかった自動車関税引き下げ>
まずは、日米関税合意が市場にとってポジティブサプライズだった要素を挙げてみよう。1)協議は手こずるという見方が根強かった中で早期合意できたこと、2)相互関税率は先に合意していた東南アジア勢(19―20%)よりも低い15%となったこと、3)27.5%のまま変わらないとみられていた自動車関税が15%まで引き下げられたこと、4)日本側に目立った譲歩の要素がなかったこと——この4点が指摘できる。なかでも自動車関税引き下げは、ほとんどのエコノミストやストラテジストが予想しておらず、大きな株高要因となった。
<ヘッジファンドが日本株をショートカバー>
一方、慎重になるべき要素も3点挙げられる。1)野村の試算では、自動車関税が下がることを考慮しても、全品目での対米実効関税率は「相互関税率は10%が定着」とみられていた時点の18.3%から、今回の合意をうけての16.5%へと、小幅な低下にとどまる。2)ベセント財務長官が「日本が合意を守らないなら、自動車やその他の製品の関税は25%に戻る」と発言するなど、「合意撤回」のリスクが残る。3)株価急騰を需給面から演出したのは、ヘッジファンドなど短期勢のショートカバーだった。最後の点 については24日の自動車株の急騰劇が象徴的だった。自動車関税の低下はたしかにポジティブサプライズだったが、突出して不人気だったセクターならではの大規模なショートカバーを誘発し、相場の「リバーサル(逆転)」を加速させた面があった。
今回の日米関税合意は、「最悪の事態はもちろん回避した。事前予想よりも良かった。だが、関税はなくなったわけではない」と評価するのが妥当だろう。同じようなことが参議院選挙の結果にも当てはまる。与党が47議席獲得したのは「直前に予想されていた大敗のシナリオを回避できた。しかし、与党が過半数をとれたわけではない」という見方である。
<来年末の日経平均予想を4万4000円に引き上げ>
では日本株のシナリオはどうなるか。野村証券は、日経平均株価およびTOPIXの見通しを上方修正した。新しい日経平均ターゲットは、25年12月末:4万2000円(従来:3万9500円)、26年12月末:4万4000円(従来:4万1500円)である。日米関税合意の直接的な業績影響は限定的であるものの、関税をめぐるグローバルな不確実性の低下とそれによる設備投資回復の効果、米国景気の想定以上の堅調さ、自社株買いの上振れによるEPS押し上げ効果、などを踏まえた。マクロ想定を用いたトップダウン方式によるTOPIX-EPSの予想も、25年度はマイナス1.1%(従来マイナス3.1%)、26年度はプラス7.5%(従来プラス4.7%)へと引き上げた。バリュエーションについては、名目国内総生産(GDP)成長率が高まっている局面で、12カ月先予想PER(株価収益率)は景気拡大期の中央値である15倍前後をやや上回る15.5―16倍が適用可能と考えている。日経平均株価は昨年7月11日に付けた史上最高値(4万2224円)の更新も射程圏内だ。
<出尽くしたのはTACOだけではない>
しかし年内の日本株はやや上値が重く、横ばいに近い推移になると予想している。第一に「トランプ大統領は必ずヒヨって逃げる」というTACO理論はほぼ出尽くしたように見える。米国の関税交渉は、対日本、対欧州ともすでに合意に至った。一方、対中関税率は現状の30%からの「引き上げ回避」がメインシナリオであり、「引き下げ」は想定しにくい。トランプ政権は、米国最大の貿易赤字相手である中国の関税率を、東南アジア諸国が合意した19―20%よりも高い水準にとどめる意向が強いからだ。「TACOの出尽くし」は、関税だけではない。米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長解任の動きも、ベセント財務長官の説得によって踏みとどまっているようだ。さらに、減税もすでに成立した。やはり追加的な「米国政府からの好材料」は期待しにくくなっているだろう。
<関税の悪影響が表れるのはこれから>
第二に、関税の悪影響がここから顕在化するリスクは払しょくされていない。米国では6月の消費者物価指数(CPI、前年同月比プラス2.67%)に関税の影響が表れ始めた。クリーブランド連銀が公表するインフレーションナウキャストでは、7月は2.73%とさらに上昇が見込まれている。野村のエコノミストは8月にはCPIが3.0%を上回ると予想している。物価高に消費がついていけるかは見てみないと分からない面がある。日本では、6月の鉱工業生産(7月31日発表)に注意したい。製造業生産予測調査(経済産業省)では、6月の生産計画が、5月調査から6月調査(いずれも10日時点)にかけて2.0%下方修正された。杞憂(きゆう)に終わればよいが、この大きな下振れは、製造業の業況悪化のシグナルだった可能性もある。
<海外勢が嫌う日銀利上げと企業業績悪化>
第三に、需給の観点からは海外投資家の買いが「一時休止」となる可能性に注意したい。海外投資家の現物・先物合計の日本株売買動向は興味深い推移をたどっている。年初から4月11日までの14週間は合計5.8兆円の売り越し。4月14日から直近(7月18日)までの14週間で合計6兆円の買い越し。つまり、海外投資家は「年初来の売り越し」をすでに解消していることになる。もちろん、強気材料があれば買い越し幅が積み上がる可能性はある。
しかし海外投資家は、1)マクロヘッジファンドは日銀の利上げシナリオが視界に入ると、日本株(とくに日経平均先物)が売り目線になりやすい、2)中長期勢は業績モメンタムに影響されやすく、4―6月期決算を受けて会社予想の下方修正が予想される局面では現物買いが期待しにくい、3)CTAは相場トレンドを後追いするため、1と2の投資家の動きが止まるなかでの相場けん引力は期待しにくい──といった傾向がある。
<「景気刺激策」は持続的評価につながらない>
また、海外投資家は年初から「脱米国」を意識しながら各地域への分散投資を図っているが、シフトする先としては欧州や韓国、あるいは中国の優先度が高く、日本の注目度が落ちている。企業ガバナンス改革は着実に進んでいるものの、目新しさに欠けるというのが現状だろう。
政局の行方によっては、来年度に消費税率引き下げが行われるなど、短期的な景気の好材料が出てくる可能性はあろう。しかし過去、海外投資家が日本株への評価を持続的に高める際、「景気刺激策」が理由だったことはほとんどない。TACO出尽くし後の日本株は、日銀の次の利上げをこなすまでの間、やや伸び悩む局面に入るとみている。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*池田雄之輔氏は、1995年野村総合研究所入社、2008年に野村證券転籍。一貫してマクロ経済調査を担当し、為替、株式のチーフストラテジストを歴任、2024年より現職。5年間のロンドン駐在時代に、海外ヘッジファンドとのネットワークを築いた。現在、テレビ東京「モーニングサテライト」に定期的に出演中。
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