尾河眞樹 ソニーフィナンシャルグループ執行役員 チーフアナリスト
[東京 23日] - ドル/円JPY=EBSは、6月以降騰勢を強めており、146円台に上昇した。市場ではドル/円が強含んだ背景として、6月13日にイスラエルがイランの核関連施設を攻撃し、その後イランが報復攻撃を行うなど、情勢が緊迫化したことによる「有事のドル買い」との見方が強い。しかし、64カ国の通貨に対するドルの値動きを表すドルの名目実効為替レートを見ると、確かにこの数日間は小幅に上昇しているが、基本的にはドルは年初来の下落トレンドを脱してはいない状況で、パンデミックの際に見られたような本格的な「有事のドル買い」にはほど遠いことがわかる。同様に、円の名目実効為替レートも足下は下落傾向で、「リスク回避の円買い」にもなってはいないようだ。
ではこの緊急事態にどの通貨が買われているかというと、スイスフランである。スイスフランの実効レートは、トランプ大統領が「相互関税」を発表した4月3日、市場全体がリスクオフに傾いた際に一時急騰したが、5月に入り、米中の関税をめぐる緊張が和らぐと反落。ここまでは、スイスフランと円はほぼ同様の値動きであった。しかし6月に中東情勢が緊迫化してからは、スイスフランが上昇した一方で円は下落するなど、この2通貨の値動きは乖離し始めた。
スイスは永世中立国であることから、過去にも戦争の際には資金回避先になる傾向はあった。しかし、その際にはドルも円も同時に上昇するのが通例だった。
例えば、直近で地政学リスクが高まった2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻が挙げられよう。この局面では予想外の出来事で金融市場はショックに見舞われ、グローバルに株式市場がリスクオフに傾くなかで、ドル、円、スイスフランの3通貨が急騰。有事における典型的な値動きとなった。今回、株式市場がさほどネガティブな反応とならなかった点は22年と異なるものの、原油価格は76ドル台まで上昇しており、金も高値圏で推移していることなどを踏まえると、中東情勢を巡る不透明感は払拭されていない。にもかかわらず、ドルと円の上値が重い一方で、スイスフランが大きく上昇しているという現象は不可解だ。スイスフランの上昇はスイスの景気やインフレの下押し圧力となっており、これを受けてスイス国立銀行(中央銀行、SNB)は6月19日、政策金利を0.25%から0.0%へ引き下げた。一部には0.5%の利下げを予想する向きもあったため、発表直後にはかえってスイスフラン高を招くという皮肉な結果となったが、スイス中銀のシュレーゲル総裁は21日、「引き続き為替介入の用意がある」などと述べ、スイスフラン高をけん制している。
先進国通貨でスイスフランがほぼ独歩高となっているのは、短期投機筋がすでに円ロングに傾いていたなど、単に様々なグローバルマネーのポジションの傾きが影響している可能性もあるし、そもそもスイスフランは流動性が低いため、変動が大きくなりやすい点も考慮する必要があるだろう。ただ、この背景として、もしかするとグローバルな財政不安があるのではないかと筆者は考えている。
本来、有事に買われるはずのドルについては、米長期国債のタームプレミアムが高止まりしており、依然として「悪い金利上昇」は解消されていない。これはトランプ関税による米国経済のスタグフレーション懸念が根強いことに加え、米下院が5月22日に可決した減税法案が財政赤字の拡大に拍車をかけるのではないかとの懸念も影響しているようだ。
財政といえば日本も悪化傾向だが、7月の参院選を前にして、物価高対策として2万円の給付金や、消費税減税の議論が活発になるなどバラマキ色は強まっており、これにより日本の長期金利にも上昇圧力がかかりやすくなっている。日銀は6月20日に行われた金融政策決定会合で、26年度以降の国債買い入れの減額ペースを緩めることを決定したが、植田和男総裁はこれについて、「市場の安定に配慮」と説明した。
国際通貨基金(IMF)は、5月29日にリリースしたレポート「今週のチャート」で、「世界のGDPの80%を占める約3分の1の国が、パンデミック以前よりも公的債務が増加し、そのペースも加速している」との分析を紹介した。また、「調査対象となった175カ国のうち、3分の2以上の国が、2020年の新型コロナウイルス感染症の流行以前よりも公的債務負担が重くなっている」としたうえで、貿易政策をめぐる緊張が高まる中で今後不確実な時代が訪れる可能性を考慮すると、各国はより一層、財政を強固にする必要がある、との見解を示している。
これに対してスイスは、財政収支が24年末時点で約47億スイスフラン、国内総生産(GDP)比で0.58%の「黒字」と、赤字が並ぶ先進国の中では優等生だ。米国や日本の財政を巡る不透明感や「悪い金利上昇」に市場の注目が集まる中で、スイスフランがリスク回避の受け皿になっている可能性はあるのではないか。
ただ、本稿執筆中にも、世界の不確実性は増している。トランプ大統領は6月21日、米軍がイランの核施設3カ所に対して攻撃を行い、「大成功」だったと表明した。また、「イランが和平に応じない場合はさらなる攻撃に直面する」とも警告している。地下の約61メートルまで鉄筋やコンクリートを突き破って爆発できるとされる、最新型のバンカーバスター「GBU57」を投下したと報道されており、実際に世界最強と言われる米軍の力を見せ付けた格好となった。
今後イランが報復措置としてホルムズ海峡を封鎖し、原油価格が急騰したとしても、6月18日に行われた米連邦公開市場委員会(FOMC)後の記者会見でパウエル議長が述べた通り、1970年代と異なり米国の中東産の原油に対する依存度は低くなっているので、米国経済への直接的な悪影響は限られるのかもしれない。
となれば、軍事力も経済力も最強の国で、世界の決済通貨であり流動性も高いドルに代わるような基軸通貨は他になく、足下はスイスフランが独歩高でも、結局は「有事のドル買い」が復活する可能性は高いのではないか。仮に原油価格急騰のリスクが高まるようなら、中東からのエネルギー輸入依存度が高い日本ではこれを嫌気してエネルギーの輸入を急ぐ動きとなる可能性もあり、この場合むしろ円安が進む可能性もあるかもしれない。
米ドルの「アキレス腱」を敢えて挙げるとすれば、やはり「信認の低下」だ。これまでもそうだったように、インフレリスクに伴うスタグフレーションリスクが高まることや、米財政への懸念が高まることは、しばしば大幅なドル安をもたらす。
5月の米消費者物価指数(CPI)は、コア指数が前年比2.8%上昇と市場予想を下回ったが、これを財とサービスに分解すると、財は今年3月まで前年比はマイナス圏で推移していたのが、5月は前年比0.3%と、わずかながらプラス幅を拡大している。関税による物価への影響が現れつつあるかもしれず、今後インフレの動向には注意が必要だ。また、ベセント米財務長官は6月9日、議会指導部に対して7月中旬までに連邦政府債務の上限引き上げか債務上限の停止を決めるよう要請しており、措置を講じなければ8月に財政資金が枯渇すると警告した。したがって7月中旬までは「債務上限問題」なども注目され、しばしばドルが急落する局面もあるだろう。
ただ、ソニーフィナンシャルグループは、来年の米中間選挙を見据えて年後半は米国と各国間で関税の「ディール」が進み、これに関する不透明感は後退していくと予想している。したがって、中東でさらに不測の事態が起きない限り、年後半にかけて米国経済が持ち直し、年末にかけてドル/円が148―150円付近まで緩やかに上昇するとの見通しを維持している。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*尾河眞樹氏は、ソニーフィナンシャルグループの執行役員チーフアナリスト。米系金融機関の為替ディーラーを経て、ソニーの財務部にて為替ヘッジと市場調査に従事。その後シティバンク銀行(現SMBC信託銀行)で個人金融部門の投資調査企画部長として、金融市場の調査・分析を担当。著書に「〈最新版〉本当にわかる為替相場」、「ビジネスパーソンなら知っておきたい仮想通貨の本当のところ」などがある。
*このドキュメントにおけるニュース、取引価格、データ及びその他の情報などのコンテンツはあくまでも利用者の個人使用のみのためにコラムニストによって提供されているものであって、商用目的のために提供されているものではありません。このドキュメントの当コンテンツは、投資活動を勧誘又は誘引するものではなく、また当コンテンツを取引又は売買を行う際の意思決定の目的で使用することは適切ではありません。当コンテンツは投資助言となる投資、税金、法律等のいかなる助言も提供せず、また、特定の金融の個別銘柄、金融投資あるいは金融商品に関するいかなる勧告もしません。このドキュメントの使用は、資格のある投資専門家の投資助言に取って代わるものではありません。ロイターはコンテンツの信頼性を確保するよう合理的な努力をしていますが、コラムニストによって提供されたいかなる見解又は意見は当該コラムニスト自身の見解や分析であって、ロイターの見解、分析ではありません。