門間一夫 みずほリサーチ&テクノロジーズ エグゼクティブエコノミスト
[東京 5日] - 6月の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く総合指数、コアCPI)は前年比上昇率が3.3%となり、日銀の目標である2%を3年3カ月連続で上回った。その間の平均上昇率も3.1%であり2%を大きく上回っている。それでも日銀は、7月末の金融政策決定会合で政策金利を0.5%に据え置いた。近い将来における利上げも示唆しなかった。
<物価だけならすぐにでも利上げ>
日本の物価上昇率は今や米欧よりも高い。米国は2.6%、ユーロ圏は2.0%である。一方で米国の政策金利は4.25―4.5%、ユーロ圏のそれは2%であり、日本だけが異様に低い。それによる円安が「2%超えインフレ」長期化の一因ともみられており、2%物価目標に忠実に従うなら日銀の利上げは待ったなしのはずである。
にもかかわらず日銀が低金利を続ける背景には「基調的な物価上昇率」がなお2%よりも低いという日銀の判断がある。残念ながら、基調的な物価上昇率を示す明快な指標はない。「2%よりも低い」というのはあくまで日銀の総合判断なので、それが本当かどうかを部外者は確かめようがない。
ひとつ関係がありそうなのは、今の物価上昇が食料に偏っていることである。生鮮食品を含む食料の物価上昇率は前年比プラス7.2%と非常に高い。コメだけでなく、様々な加工食品の価格も上昇している。そして、この食料価格の上昇には天候など一時的要因が作用している面があり、食料に引っ張られた今の物価上昇が、そのまま基調的なものと言えないのは確かである。
しかし、食料インフレが長期化しつつあることも見逃せず、さすがに日銀もやや警戒し始めている。植田和男総裁の7月末の記者会見でも、食料価格の上昇が長期化した場合、予想物価上昇率などを通じて基調的な物価上昇率に影響が及ぶ可能性に言及があった。ちなみに、帝国データバンクの調査によると、前回食料価格が大きく上がった2023年には人件費を理由とする値上げは1割に満たなかったが、今年はそれが5割を超えている。今の食料価格の上昇は、単純に原材料コストの価格転嫁だけでなく、「賃金と物価の相互作用」で起きている面が大きくなってきているのである。
<利上げの真のハードルはトランプ関税の影響>
このように日銀自身も、基調的な物価が意外に強くなる可能性を気にし始めているように見える。それなのに、わずか0.5%からの利上げにさえ踏み切れない本当の理由は、ほぼひとえにトランプ関税の影響である。この点、市場の一部には、日米の関税交渉がまとまったのだから利上げのハードルは下がったとの見方がある。
しかし、日銀は最新の展望レポートでも「各国の通商政策等の今後の展開やその影響を受けた海外の経済・物価を巡る不確実性は高い状況が続いている」としている。確かに日本への直接的な影響だけ考えても、米国向けのほぼすべての輸出に15%の関税が課されるというのは、産業界が経験したことのない異例の事態である。
悪いことに、日本経済は関税の影響が本格化する前から既につまずき始めている。1―3月期にマイナス成長になったあと、4―6月期もおおむねゼロ成長が見込まれている。コロナ禍後の日本経済は、人口の高齢化が一段と進む中で、成長力が「失われた30年」よりもさらに弱まったように見える。物価は経済の強さを反映して上がっているわけではなく、円安や人手不足の影響で上がっている面が大きい。
だから今の物価上昇は景気にマイナスであり、とくに家計への打撃が大きい。日銀の「生活意識に関するアンケート調査」によれば「暮らし向きにゆとりがなくなってきた」と感じる家計は61%にのぼり、これはリーマンショック不況の09年以来の高水準である。国民の不満がリーマンショック並みなら、既成政党が支持を失い政治が不安定化するのも無理はない。
そこに追加されるマイナス要素がトランプ関税なのである。せめてもの救いは2年連続で高い賃上げが実現していることである。ただ、それでも物価の上昇には追い付いていない。次の春闘は、物価に負けない賃上げへの「三度目の挑戦」になる。「たぶん大丈夫だろう」と日銀は見ているようだが、リスクはある。関税の影響で企業収益が圧迫され賃上げのモメンタムが途切れることがないかどうか、日銀としてはしっかり確認したいところである。
<年内の利上げは困難だが米国次第で前倒しも>
米国や中国をはじめとして、世界経済はこれまで底堅く推移してきた。関税の影響は大きくない、という楽観論が台頭することにも一理ある。しかし、過去数カ月の米国の需要は、関税が本格化する前の駆け込みでかさ上げされており、それと表裏をなす形で、米国以外の国では駆け込み輸出が増えている。
さらに、中国が年前半5%を超える成長だったのは、時限的な消費支援策などの影響もある。これは痛しかゆしであり、中国の年間成長目標は5%なので、上期に過剰達成できてしまった分、下期に思い切った景気対策が打たれる可能性は低くなる。つまり、関税前の駆け込みと中国の消費支援策でかさ上げされてきた世界経済は、ここからそれらの「二つの反動」に見舞われる局面に入っていく。
日銀の展望レポートには「経済・物価の見通しが実現していくとすれば、経済・ 物価情勢の改善に応じて、引き続き政策金利を引き上げる」と書かれている。ポイントは「経済・物価情勢の改善に応じて」という部分である。これは、経済がいったん減速する局面では利上げをせず、再び改善局面に入るのを確認しながら利上げしていくという意味である。「二つの反動」が今年の後半に出てくるとすると、その間は利上げの可能性が低いと考えられる。
国内の政治情勢も流動的であり、そのこと自体、日銀にとって動きにくい環境である。加えて、政権がどういう形であれ、秋の臨時国会では経済対策が主要なテーマになる。石破茂首相はトランプ関税の影響について、中小企業対策などに万全を期すよう既に関係閣僚に指示している。そこまで政府が危機感を強めている中で、日銀だけが平然と早期利上げに動くとは考えにくい。
一方、物価高が景気の足を引っ張っているのだから、なおのこと早く利上げした方がよいという意見もある。しかし、「利上げで物価を抑える」とは、人為的に景気を冷やしその効果で物価を抑えるという意味である。したがって利上げは、景気が過熱している時には最適の物価抑制手段になる。しかし、家計の不満がリーマンショック並みの今の局面で、経済にわざわざ負担をかける利上げは、簡単に使える物価抑制手段ではない。物価高に不満を持つ人々やその意をくむ政治家たちが、日銀に利上げを求めるのでなく減税や給付金の効果に期待を寄せるのは、ベストの選択ではないが感覚として正しい。
年内利上げの可能性があるとすれば、米国経済が思いのほか強く、大幅なドル高・円安が進行する場合だろう。米国では、AIブームで投資が活発であるし、ブームに乗る株高が富裕層の消費を支えている。関税を回避するための製造業回帰、さらには米国が日本や欧州連合(EU)などと合意した投資への期待が、企業マインドをさらに強くする可能性もある。景気の上振れで連邦準備理事会(FRB)の利下げ予想が大きく後退すれば、ドル高・円安の動きが強まるとみられる。
政治は基本的に利上げを嫌うが、円安が行き過ぎる場合だけは別である。昨年のケースを思い出しても、円安で国民の不満がさらに高まるなら、利上げはむしろ歓迎される。現時点で確率が高いとは思わないが、日銀の年内利上げがあるとすれば、米国経済が大きく上振れる場合だと考えられる。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラム向けに執筆されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*門間一夫氏は、みずほリサーチ&テクノロジーズのエグゼクティブエコノミスト。1981年に東京大学経済学部を卒業後、日本銀行に入行。86年に米ウォートンビジネススクール留学。調査統計局長、企画局長を経て、12年に日銀理事(13年3月まで金融政策担当、以降、国際担当)を歴任。16年に日銀を退職し、みずほ総合研究所エグゼクティブエコノミスト。21年4月から現職。
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